健樹、と書いて『かつき』と読む。当時両親が読んでいた本に登場する名前から、名付けられた。
古瀬健樹さん、22歳。
早稲田大学を卒業したばかりの、いわゆる社会に出たばかりの若者だ。だがその落ち着き様を見れば、誰も22歳とは思うまい。
発する言葉によどみはなく、相手をまっすぐと見つめる目線が印象的。体の中心からは、太く重みのある芯を感じる。
凛とした、という言葉よりも、落ち着き払った、のほうがしっくりくる。
日本ラグビーフットボール協会A級レフリー、古瀬健樹氏。
2022-23年、2023-24年と2年続けてリーグワン ベストホイッスル賞を受賞し、いま最も飛躍が期待される若手レフリーは、この春から日本ラグビーフットボール協会所属となった。
ラグビーワールドカップでのレフリーを目指し日々鍛錬を積む古瀬さんは、2024年7月、スコットランド・エディンバラで行われているワールドラグビー U20トロフィー2024の決勝戦で、笛を吹く。
『責任感の強い男の子』が出会ったラグビー
小さい頃の習い事は、机に向かうものが多かった。
英会話にピアノ、書道。
小学生時代の通信簿に並んだ言葉は『元気』に『責任感が強い』。現在の姿も、幼き頃から大きくは変わらない。
福岡で生まれ育った1人の少年がラグビーに出会ったのは、中学時代のことだった。
中高一貫校である東福岡自彊館中学校(高校は東福岡高校)に進学すると、ラグビー部の顧問を務めていた体育教諭から勧誘を受ける。
それまでスポーツに打ち込んだことのなかった古瀬さんだったが「初心者ばかりのラグビー部が一番始めやすかった」と入部を決意。
3年間、放課後はラグビーに費やした。
ポジションはフッカー。3年次には、キャプテンも務めた。
選手としてのラストゲームは、中学3年生の8月。太陽生命カップ・九州大会が、公式戦でボールを持った最後のゲームとなった。
転機が訪れたのは、それから少し経った頃のこと。
通っていた中学は、中高一貫校。高校受験の必要がなかったため、引退後も後輩を手伝うべく、古瀬さんは部活動へと出向いていた。
そこで顧問から突然渡されたのが、レフリーが持つ笛。中学3年秋口、後輩の練習試合の時だった、と記憶する。
もちろん、レフリー経験はない。レフリーがしたい、と言ったこともない。
だが、手にした笛が古瀬さんの運命を変えた。
「顧問の先生が僕にレフリーを任せたことに、特段の理由はなかったと思います。そこにたまたまいたのが僕だったから、先生は僕にレフリーをさせたのではないかな、って。ただキャプテンをしていたので、もしかしたらそういうことも関係しているかもしれません」
以降も、度々笛を吹いた。
後輩たちの練習試合を任されるうちに、ゆるやかに気持ちの変化は起こる。
「レフリーとしての面白さ、プレイヤーとは異なるラグビーへの関わり方に興味を持ちました」
高校1年の夏のことだった。
選手とは違い、ボールだけを見ていたらレフリーは務まらない。選手とは異なるポジショニングをしなければならず、するとラグビーの違った側面が見える。
プレイヤーの時には気付かなかったスペースが見え、また選手が何を考え、レフリーには何が求められているのかと考えることが多くなった。
それが「面白い」に繋がった。
「ルールブックに照らせば、様々なことが起きています。レフリーが笛を鳴らせば、正しいことはいっぱい起きる。でもそれだと、ゲームは数秒ごとに止まってしまうんです。だからこそ、ゲームとして何を求められているのか、選手が何をしたいのかを理解しながらレフリングすることが難しかったです」
東福岡高校ラグビー部の監督・コーチ陣に当時の古瀬さんのことを問うと、こぞって「最初から上手だった」と口を揃える。
本当にレフリングが上手かった、といくつも誉め言葉が飛び交った。
異例、の連続。高校生レフリーのパイオニアに
高校2年に上がる直前の春休み、C級レフリーの資格を取った。
それまでは資格取得に年齢制限が設けられており、18歳以上でなければ土俵に上がることすらできなかった。
理由は、試合中に重症事故が起きた際、事故報告が必要なこと。また担当した若年層レフリーの精神的なダメージや観客からのプレッシャーを考慮してのものだった。
レフリーを守るために設定されていた、最低年齢。
だが意志があり、スキルもある若者のため、特例措置が認められる。
レフリーコーチたちが必ず会場にいて、しっかりと監督する中でレフリーをすること。
『大人のサポート』を条件に、高校生レフリーのパイオニアは誕生した。
初めてのビッグゲームは、高校3年生の時に吹いた東西対抗戦。公式戦デビューは、花園ラグビー場だった。
2022年3月、エコパスタジアムで行われた高校日本代表候補のエキシビションマッチでも笛を吹いた
東福岡高校卒業後は、早稲田大学に進学する。
高校時代はラグビー部に所属せず『帰宅部』だったが、早稲田大学ではラグビー蹴球部の一員に。
入学当初は高校と同じく無所属のまま、トップリーグチーム(当時)のアシスタントレフリーとして活動する検討もしたが、新型コロナウイルスが直撃。全ての活動がストップし、その選択肢はなくなった。
「ラグビー蹴球部に入ったら、こんなことが起こるのではないか」というネガティブな想像も多少持ち合わせてはいたというが「入らなければ実際の所は分からない。まずはチャレンジしてみよう」と、ラグビー蹴球部の門戸を叩くことを決意。
だが結果「それが良かったのだと思います」と古瀬さんは語る。
「チームと一緒に日本一を目指す、スタッフとして選手と同じ目標に向かう経験はすごく新鮮でした。チームマンとしての自分の役割も分かった。プラスになりました」
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