「そうか、俺、今日の早慶戦にやっぱり出られないんだ」慶應義塾大学主将・中山大暉が流した、ひとしずく|主務・山際毅雅の葛藤

アンサング・ヒーロー 第125代主務・山際毅雅

第125代主務・山際毅雅(やまぎわ こうが)。

選手入場を見届け、最後にグラウンドに姿を現した目は、真っ赤に潤んでいた。

高校3年生の時の花園予選が、フラッシュバックしたんです」

ロッカールームの電気を消し、真っ暗な中で歌う塾歌。

主務として部屋の電気のスイッチャーを任された後は、ドアを開け、その場で選手たちを見送る。

自身の顔を見て気持ちを高ぶらせる選手たちを前に、山際さんの気持ちもこみ上げた。

栃木県出身の山際さん。

埼玉県立浦和高等学校に進学すると、2年時に花園出場を果たし、3年生の時にはキャプテンを務めた。

大学は迷わず慶應義塾を選択。黒黄のジャージーに憧れ、一般受験で門を叩いた。

入学後はしかし、同期の同じポジションにスーパーエースが立ちはだかる。

中山大暉。

「初めて、絶対に勝てないと思った相手」が、自身のAチームデビューを遠ざけた。

2年の春、山際さんがBチームに絡んだ時のこと。

部内でのアタック・ディフェンス練習で体を当て込めば、プレイヤーとしての能力に驚愕する。

「心の底から『すげーな』と思える選手は初めてでした」

だからこそ、そんな選手から自分のプレーを評価されることが嬉しかった。

第125代主務を務める山際さんと、第125代主将を務めるHO中山キャプテンには、不思議な縁がある。

中山選手にとって初めて踏んだ全国大会の芝は、高校2年の冬、花園3回戦・浦和高校戦だった。

トイメンにいたのは、当時浦和高校でフッカーを務めていた山際さん。中山キャプテンは、その時のことを今でも覚えている。

大学入学後は、2年時からの3年間、寮でのルームメイトを継続中。

そしてなんと卒業後、同じ会社に就職することも決定した。

「漫画みたいな関係性」だと山際さんが話せば、中山キャプテンも「多分一生、関わっていく存在なんだろうなと思います」とほほ笑んだ。

主務=選手引退

慶應義塾體育會蹴球部の主務決めがは、早くから始まる。

2年生の夏から10月末にかけて何度も、毎日のように同期全員との話し合いが行われた。

4年時に主務となる人材は、3年時に副務を担当する。

日本ラグビーのルーツ校である慶應義塾大学にとって、主務・副務は選手との兼任が難しい。

主務に選ばれればすなわち、選手生活が終わることを意味する。

「僕たちはまず、主務に必要な資質を話し合いました。挙げられたのは、4つの要素。決断力、信頼度の高さ、要領の良さ、そしてメンタルの強さでした。その資質に適した人を話し合い、投票する、というプロセスが繰り返されていきます」(山際主務)

およそ3か月に渡る話し合い。

だんだんと自らの名がその中心に据えられていくその様を振り返れば、山際さんは当時の苦しかった思いを吐露する。

「生殺しというか。いつ自分のラグビー人生が終わるか分からない状況でした。入部した時も、もちろん主務決めが始まった時ですら、僕が主務になるとは全く思っていなくて。なので、首を絞められながら生きているというか。本当に苦しかったです」

気を紛らわせるために、高校時代を過ごした祖父母の家に行き、ご飯を食べたこともある。

だが胃が受け付けず、その帰り道に戻したことだってあった。

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そんな山際さんの考え方を変えたのは、中山キャプテンだった。

「主務になるということは、選手を辞めなければいけないので、僕としては推してほしくないんです。(同じ埼玉県の高校出身・WTB)渡邉匠は、最後の最後まで僕ではない人に投票してくれていました。ただ、人数がかなり絞られた段階でのある投票前夜、(中山)タイキに呼ばれたんです」

部屋で2人、向き合って伝えられた言葉は「明日、俺はお前に入れる」だった。

「プレイヤーとして評価していない、ということでは全くない。まだ2年だけれど、俺はこの代の中心人物になっていくと自分では思っている。そんな時に誰に主務でいて欲しいかと考えたら、俺はお前に主務をやって欲しい」(中山キャプテン)

中山キャプテンは言葉の意図を、こう説明した。

「コウガには選手を続けて欲しいし、仲良い選手に辛い思いをさせたくはなかった。それでも自分たちの代で、主務としての素質が一番あるのは、コウガだと思いました。スタッフになっても、チームのために努力をしてくれるだろうし、選手に寄り添ってくれる人間です」

そうは思っていても、なかなか伝えることができなかった。

高校で主将を経験している人材であり、一般入試で慶應義塾大学を志した人間。試合に出たいという思いが人一倍強いことも、知っていた。

「慶應義塾大学に対する思い入れが同期の中でもとりわけ強い、と感じていました。だからそういう存在に、僕は主務としてチームを引っ張って欲しいと思って。主務とはグラウンドで1人、スーツをビシっと着てチームを象徴する存在なのだと、1年生の時から対抗戦に出ている僕だからこそ知ってもいます。自分が一番信頼できて、チームのため慶應義塾のために強い想いを持っている人に、主務をやってほしかった」

一番信頼をおけるのはコウガ。

何度も繰り返した。

その一夜を経て、山際さんの心に変化は生まれる。

自分がどうありたいか、ではない。チームとして、どうあるべきか。

「僕が主務をやったほうがいいのかもしれない」

初めての気持ちが芽生えた。

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後にこの代の主将となる人物、中山大暉が山際さんに投票した日を境に、仲間の投票行動も大きく変わった。

高校時代を知る渡邉選手も、山際さんに投じるようになる。

ほどなくして、第125代主将主務が山際毅雅に決定。

しかし3年時には、近年では異例となる、選手兼任で副務を務め上げた。


考え続けたのは「ルーツ校の主務としてどうあるべきか」。慶應の主務である以上、日本一の主務である必要がある。「未来の主務たちには、誰にも恥じない姿勢で試合に臨んで欲しいです」

チームのためを思って、早く選手を辞めてくれ

当初は、主務になろうとも、選手と兼任するつもりでいた山際さん。

昨年、国立競技場で行われた第100回早慶戦でも、その気持ちを新たにする。

「来年は絶対、ここに選手として出ようと思いました。絶対、何が何でも早慶戦に出てやる、と。この舞台に出られる可能性を自分で断つのは、マジでもったいないなと思って。選手を続けようと決心したんです」

だが、その後行われた、同期1人ひとりと本音で話す個別ミーティングでのこと。

学生コーチを務める同期の渡邉海人さんに、厳しい言葉を掛けられた。

「チームのためを思って、早く選手を辞めてくれ。この1年、これだけやって黒黄ジャージーは無理だった。早く選手を切り上げて主務に専念して欲しい」

主務としての素質は100%評価している。

プレイヤーとして評価していないわけではないが、選手としてのコウガには正直、期待していないーーー。

「カイトは僕と同じように、その資質を買われて3年時から学生コーチに専念した人です。僕よりも1年早く、選手を辞める勇気を持ったカイト。一番気持ちが分かるカイトに、そう言われて。『この1年で、僕は信頼を勝ちとれなかったんだ』と思いました」

2023年12月28日。

選手生活に終止符を打った。

「どんな形であっても、選手ではなくても、頑張るあなたを応援する」と伝えてくれた両親。

高校時代を支えてくれた祖父母からは「大きな怪我なく、ラグビー人生を終えられてよかった。それが心配だった」との言葉をもらった。


祖父は今年の5月に他界。黒黄ジャージー姿を見せることはできなかったが、学年でたった1人の主務としてネクタイを締める孫を、誇らしく天国から見守っているはずだ

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第101回早慶戦。

山際さんは止まらぬ涙を頬に零しながら、慶應義塾大学のスーツを着て、塾歌を歌い上げた。

「憧れの早慶戦。秩父宮で黒黄を着て、塾歌を歌って早慶戦に出ることができなかったことに悔いは残っています。でも僕の代では、僕じゃなきゃ主務はできなかった」

自信と誇りを胸に、大学4年の冬を迎える。

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