6番・小川健輔
もし、だれか1人だけMVPを選ぶのであれば、迷いなく小川健輔選手の名を挙げたい。
それほどまでに堅守の肝となる働きをみせた、花園での4試合だった。
少し無理をした仲間のプレーには、誰よりも早く身を投じる。
いち早くピンチを察知し、抜けられそうな隙間を埋める。
ボールを持つことよりも、ラッチングに入る場面の方が多かっただろう。だが、だからこそ桐蔭学園は前に出ることができた。
神奈川県予選準決勝を前に、左ひざを負傷した。
花園に間に合うかどうかすら不透明。スタッフ陣から最も出場を危ぶまれていたのが小川選手だった。
「(コンディション的に)小川が一番厳しい」
12月上旬には、そんな言葉も聞かれた。
だが、今年の桐蔭学園にとって必要不可欠なピース。当初は大阪入りしてから練習に復帰予定だったが、順調な回復を見せれば神奈川を発つ2日前に練習へと合流した。
「準々決勝までは全く痛みも何にもなかった。正直、怪我する前と同じコンディションでプレーできていた」と心強い言葉を口にすれば、準々決勝以降は3試合でフル出場を果たす。
小川選手の危機察知能力が、チームを頂点へと導いた。
7番・申驥世
「桐蔭学園に入ることを決めた時(に想像した)よりも楽しかった。そして思ったよりも、辛かったです。ほんっとうに色々ありましたが、桐蔭に来て良かった。桐蔭の仲間が大好きなので、最後こうやって笑って自分たちの代を終えられることが嬉しいです」
決勝戦を終え「総じてめちゃくちゃ楽しかった」といつもの笑顔で笑ったのは、第59期主将・申驥世選手だ。
優勝決定の瞬間。飛び跳ねた申キャプテン
中学は東京朝鮮中高級学校中級部に通っていた申キャプテン。
世田谷区ラグビースクールをA登録とする傍ら、平日は『東京チョウチュウ(東京朝鮮中高級学校中級部のこと)』のラグビー部にも所属した。
小学生からラグビーをしていた学校の仲間はおらず、同級生を10人ほどラグビー部に誘い、楽しくラグビーに興じたのだと笑顔で振り返る。
父は東京朝高ラグビー部のコーチ。もちろんそのまま東京朝高に進学する道もあったが、桐蔭学園への憧れを捨てきれなかった。
「絶対に花園で優勝する。行ってきます」と宣言し、神奈川へ。
中学の仲間たちからは「頑張ってこい」と送り出してもらった。
そう、申キャプテンにとって桐蔭学園とは「憧れ」。
そして「自分たちが作っていかなければならないもの」と心得る。
だが1年時には絶望を味わう。
神奈川県大会決勝で東海大相模に敗れた際、1年生で唯一先発メンバー入りしていたのが申選手だった。
花園で優勝するために自らで選んだ道。選択を正解にする、そのための道のりは決して簡単なものではないことを知った。
1年時の花園予選。7番で先発出場した申選手
2年生で全国制覇を成し遂げると、3年時には59代目のキャプテンを任された。
強い日差しが照りつける真夏の菅平でのこと。申キャプテンは、その想いを打ち明けた。
「本当に僕は、桐蔭学園ラグビー部が大好き。入る前も、入った後も、このチームで勝ちたいし、ずっと強いチームで在りたい。ずっと強いチームでいてほしい。そのためにも自分たちがもう一度優勝して、『俺たちすごいだろ、この仲間すごいだろ』と言いたいんです」
何よりも先に「桐蔭学園ラグビー部が大好き」が感情を支配した。
足もとはピンク色のスパイクが定番。だがスクラム勝負と踏んだ準々決勝・大阪桐蔭戦では、金属のポイントがミックスされた白色を履いた
だから自らの代で優勝を果たした今、胸を張って言いたい。
「桐蔭に来て良かった。桐蔭の仲間が大好きです」
仲間を大切にするキャプテン。
桐蔭学園が大好きなキャプテン。
新たな歴史を、大好きな仲間とともに作り上げた。
開会式直前に撮影した集合写真。この11日後、ふたたび大優勝旗を手にした
8番・新里堅志
新里選手から発せられる情熱は、どこか優しい。
きっとそれは愛情ゆえなのではないかと理解している。
ラグビーと真っ直ぐに向き合う愛。
ラグビーが好きな家族から受け取る愛。
そして仲間への、チームへの、関わる人への愛。
試合前には用具を磨き、心を整えることも忘れない。
センターからFW第3列へと転向し、ポジションを確立したのは2年生になってから。
その頃は申キャプテンと2人でフランカーを担い、同じ色のスパイクを履き、背格好まで瓜二つだったが、いまでは幾ばくか申キャプテンよりも大きな背中になった。
最上級生となった今季、特段の肩書きは有さなかったが、それは役職なくとも中心人物になることができたゆえ。
何時もチームの真ん中で、大きな愛を体現した。
忘れられぬ光景がある。
決勝・東海大大阪仰星戦のキックオフ目前。
円陣を解き、いつものように申キャプテンと何度か肩を合わせたあと、新里選手は申キャプテンを呼び戻し抱擁した。
「大丈夫。自分たちはやるだけ。頑張ろう」
互いにそんな言葉を掛け合ったそうだ。
時間にしておそらく2、3秒。いや、コンマ数秒だったかもしれない。
決勝に立つ者だけに許される、特別な時間を2人で噛み締めた。
9番・後藤快斗
東海大相模に敗れ、花園出場を逃した2年前の神奈川県大会決勝。
申キャプテンとともにメンバー表に名を連ねていたのが、当時1年生の後藤快斗選手だった。
写真中央のピンクスパイクが、当時1年生の後藤選手
2年時にはU17日本代表にも選ばれた。
しかし桐蔭学園での先発定着は、最上級生になってから。シーズン序盤はゲームメイクに力を入れ、下級生スタンドオフとともにゲームマネジメントを学びながらじっくりと成長を続けた。
同時にリーダーシップの重要性を理解すると、ミーティングでは率先して発言するようになる。すると自信は落ち着きとしてプレーに表れ、過度な肩の力は抜けた。
春の終わりには、桐蔭学園らしいスクラムハーフ像を確立していた。
なんといっても強みは「テンポとラックサイドの仕掛け」。
その最たるシーンが訪れたのは、準決勝・國學院栃木戦だろう。ラックサイドに空いたスペースを見逃さず走り込めば、トライを奪った。
誰かのサポートにつき並走し、最終的にボールを保持して奪ったトライも、シーズンを通したら数知れず。
嗅覚とサポート心。そして安定した球捌きが、今季のスピードラグビーを支えた。
10番・丹羽雄丸
「僕たちの代のスタンドオフが帰ってきていない」
シーズン序盤、3年生たちが何度も発した言葉だ。
大怪我からの復活だった。
チームの心臓部・スタンドオフを務める丹羽雄丸選手は、2023年10月に左膝の前十字靭帯を断裂。半月板も損傷しており、同年11月には手術を受ける。グラウンド復帰は2024年5月のことだった。
3年生になって初の全国大会は、全国高等学校7人制ラグビーフットボール大会。
桐蔭学園は5年ぶり2度目の優勝を果たすと、そこから丹羽選手を核としたチーム作りを進めた。
全国7人制大会でスポットコーチを務めたOBの小西泰聖選手(現・浦安D-Rocks)からもらった白のロングTシャツを練習着として愛用する
まず注力したのは、フィットネスの向上だった。
「誰よりも走れば、味方に素早く指示を出すことができる」と地道なスプリントを繰り返した。
その甲斐あって、花園では5試合あわせて5トライ。
それだけではない。
「絶対に自分はマークを受けるし、パスを放った後にもタックルを受ける。自分がマーク受けるということは、絶対に誰かは空くということ」と、数字には表れない多くのトライアシストも決めた。
投げてよし、蹴ってよし、走ってよし。
キックパスにより効力をもたせるためのラン。いや、自らの仕掛けを際立たせるためのパスというべきか。
才能をいかんなく発揮した、最初で最後の花園だった。
一つ、印象的なトライとして、決勝戦で挙げた2トライ目を紹介したい。ゴール前でのラックから球を受け、インゴール目掛けて走り込んだ38得点目のトライだ。
もちろん相手ディフェンスも絡んでいたので、ボールをグラウンディングできるかどうかという場面。
丹羽選手は一度引き抜こうとしたが、東海大大阪仰星の強いプレッシャーを受ける。
引いてダメなら押してみな。
丹羽選手は瞬時に判断し、地面側にある右手に力を入れるのではなく、左手を上から押し当て、ボールを地面側へと押し込む力を加えた。
冷静に事象と向き合い、機転を利かせたからこそ認められたグラウンディングだった。