第104回全国高等学校ラグビーフットボール大会で全5試合に先発出場したのは、東海大大阪仰星高校3年生の吉田琉生選手。
東海大大阪仰星でラグビーがしたい、と秋田県から大阪府にやってきた若きラガーマンは1年時から主力選手として活躍し続け、3年間紺色のジャージーをまとった。
3年時には共同主将。そして、背番号10。
東海大大阪仰星のラグビーを、余すことなく表現した。
2025年1月7日。
最後の花園を戦い終えた吉田選手は、足を引きずりながらグラウンドを後にした。
両足首を負傷し、試合後には歩くのも”やっと”。
決勝戦では、反撃の狼煙となるトライを挙げたが、その姿は紛れもなく満身創痍だった。
自ら望んだ場所での3年間。だからたとえどんな状態であろうとも、最後まで戦い抜いた。
「毎日が楽しかった」と笑顔で振り返る東海大大阪仰星ラグビー部で学んだことを、最後の笛が鳴るまで出し切りたかった。
吉田選手は言う。
東海大大阪仰星で学んだのは「愛だった」と。
愛を伝えてくれた人がいる。
湯浅大智監督。
親元を離れた3年間。湯浅監督が、父親代わりだった。
「僕にとって湯浅先生は、大阪のお父さんだと思っています」
3年間での学びは、ラグビーに留まらない。
湯浅監督の情熱に、考え方。そして人柄。すべてに影響を受けた吉田選手は「湯浅先生が大好き」なのだと言った。
「僕、湯浅先生のことが本当に大好きで。ずっと話し掛けていたし、目が合う度に笑いかけていました(笑)」と高校生らしく無邪気に振り返る。
そして「湯浅先生から愛を学ぶことができました」と言うと、輝く目尻を少し下げた。
「湯浅先生からは、一番愛を感じました」
憧れの東海大大阪仰星で過ごした3年間。
3年目で初めてたどり着いた、決勝戦の舞台。
受け取った『愛』を、グラウンドで存分に表現した。
準決勝・常翔学園戦後の一コマ。ひとり立ちすくむ常翔学園・井本主将に、吉田選手自ら歩み寄った
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1月7日の決勝戦後には、悔しさを目の奥にしまいきれぬ表情でじっくりと、報道各社からのインタビューを受けた湯浅監督。
長い取材対応を終えると、一言「監督の差です」と呟き取材エリアを後にした。
試合中であっても、気付いたことがあれば湯浅監督は控えメンバーの方に出向き、その場で指導した
東海大大阪仰星とは、そう。ファイターである。
球際に強くなければラグビーが成り立たないことを、他校の選手たちにプレーで教える学校。
そして、愛を伝える学校である。