左腕に巻いた喪章。全国選抜大会の実現に奔走した「オヤジ」に捧ぐ、初めての1回戦『負けなし』|昌平|第26回全国高等学校選抜ラグビーフットボール大会

突然の訃報だった。

埼玉県ラグビーフットボール協会副会長、理事長など数々の要職を歴任した尾崎氏。

生まれは北海道北見市だが、昭和42年に埼玉国体の強化選手として埼玉県立熊谷工業高校の新任教員に着任したところから、埼玉県での歴史は始まる。

昭和53年に埼玉県立深谷高校に異動すると、ラグビー部を創部。以後22年間、同部を率いた。

「尾崎先生なくして埼玉の中体連はなし」「熊谷ラグビー場もなし」と言われるほど、埼玉県ラグビー界に大きな影響を与えた尾崎氏。

そして現在行われている全国選抜大会もまた、尾崎氏の尽力なくして開催されることはなかった。

令和2年4月に発行された『埼玉県ラグビーフットボール協会 創立75周年記念誌』には、大会実現に向け奮闘した歴史が記されている。

(以下、埼玉県ラグビーフットボール協会 創立75周年記念誌より一部抜粋)

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昭和58年3月に毎日新聞社より(財)日本ラグビーフットボール協会に選抜大会開催要望が出され、日本協会より全国高体連ラグビー専門部に検討の要請がありました。昭和58年10月の全国高体連ラグビー専門部委員長会議で初めて選抜大会開催が議題となりました。

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昭和58年12月、埼玉県議会において県営ラグビー場の建設が承認された。その会議で、県営ラグビー場の有効利用についての質問に対し知事は、「西の花園、東の熊谷」として全国高校選抜大会を誘致し、高校ラグビーのメッカとする、と答弁した。

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熊谷で全国選抜大会を開催することーーー。

その実現を一任されたのが、昭和58年4月に埼玉県高体連ラグビー専門委員長に就任していた尾崎氏だった。

以降、関係団体や関係企業との調整に、多大な時間と労力を割く。最大の懸案は、開催時期であった。

また熊谷ラグビー場建設予定地に文化財が出土し、建設工事が中断するなど物理的に話を進められない時期もあった。

それでも未来のラグビープレイヤーたちのために、と奔走すること足掛け18年。

昭和63年のさいたま博覧会、平成4年の埼玉招待試合、平成5年の東日本高校選抜大会を経て、平成12年にようやく、第1回全国高等学校選抜ラグビーフットボール大会は開催された。

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尾崎氏のことを「埼玉のオヤジ」と呼ぶのは、昌平高校の御代田誠部長。

御代田部長が埼玉県の高校ラグビーに携わるようになったのは、昌平高校に赴任した平成20年のこと。北海道出身、且つ國學院栃木高校で高校生活・教員生活を送っていた御代田部長にとって、埼玉県は馴染み深いと言い難い場所だった。

だが、当時埼玉県ラグビー協会の副会長を務めていた尾崎氏もまた北海道出身だったことから「同郷のよしみでかわいがってもらえるようになった」と懐かしむ。

今では昌平高校が台頭し、尾崎氏が創部した深谷高校の良きライバルとなったが、埼玉県内各大会で優勝を果たすたびに「おめでとう」と声を掛けてもらえるようになった。それが「嬉しかった」と、御代田部長はいう。

尾崎氏は昌平高校を応援するため、花園に駆け付けたこともあった。

だから。

この日、全国選抜大会の1回戦に挑んだ昌平高校の選手たちは、左手首に黒い喪章を巻いた。

宮元キャプテンは言う。

「昌平の代表ではなく、埼玉の代表として戦いました。勝利には至りませんでしたが、埼玉のプライドを見せられたかな、と思います」

そう、昌平高校が今回出場したのは開催県枠。

尾崎氏が大会開催にこぎつけた全国選抜大会を、埼玉県の代表として戦うことができるただ一つのチーム。

だからこそ「埼玉のオヤジに捧げる勝利を」と願ったが、勝ち切れず。あと1点に涙を呑んだ。

「尾崎先生はよく『勝ち切らないと』とおっしゃっていました」とは御代田部長。

勝ち切ることの大切を改めて学んだ、2025年3月23日。

「埼玉のオヤジ」の教えを胸に、昌平は『2年連続の埼玉4冠』を目指すシーズンを戦う。


昌平高校の選手たちは左手首に黒い喪章が巻き、奮闘した

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