「早稲田で、キャプテンとして日本一になる」
その夢を、追い続けてきた人がいる。
早稲田大学ラグビー蹴球部4年、中島潤一郎。
幼きころからワセダクラブに所属し、小学生、中学生、高校生とすべての年代でキャプテンを務めてきた。リーダーであることが、常に彼の立ち位置だった。
早稲田大学に入学後も、新人早明戦(1年生が主体となった入学直後に行われる初めての早明戦)でゲームキャプテンを担った。その一戦で、実に16年ぶりとなる勝利を早稲田にもたらした実績を持つ。
稀代のキャプテンとして、将来を嘱望された中島氏。
だがその夢は、怪我という現実によって断ち切られることになった。

繰り返した脳震盪、下された決断
大学2年生の頃から、脳震盪を繰り返すようになった。
そして何度かプレーできぬ期間が続いた3年の秋、医師から「ラグビーをやめた方がいいのではないか」という言葉を告げられる。
ドクターストップ。
18年間に及ぶ、競技人生の終わりを意味する宣告だった。
もちろん中島氏はすぐに「やめます」とは言えなかった。3歳からから続けてきたラグビー。しかも、憧れ続けた先にたどり着いた早稲田の舞台。
夢を諦める理由として、簡単に受け入れられるものではなかった。
リハビリを続けながら、復帰の可能性を探った。しかしコンディションは思うように上がらない。やがてグラウンドだけでなく、日常生活にも影響が出始めた。
ここまでか。そう感じた時、彼の中で一つの結論が浮かび上がる。
「選手でいるより、チームのためにできることがある」
最終学年のシーズンが始動する前日のこと。中島氏は大田尾竜彦監督のもとを訪れ「スタッフにさせてください」と頭を下げた。
自分が無理をして選手を続けることが、本当にチームのためになるのか。日本一を目指すチームにとって、今の自分は何者であるべきなのか。その問いの末にたどり着いた答えが、「裏方として戦う」ことだった。
「僕自身はプレイヤーを続けたかったです。でも、チームのことを考えたらスタッフになった方がいいかな、と思って。頼りになる後輩が、いっぱいいます。(桐蔭学園高校の後輩であるFL城)央祐や(FB矢崎)由高、前田(麟太朗、PR)も。自分が身を引いて、彼らに託した方がいいと思いました」
アカクロのキャプテンを夢見続けた男が、チームの未来を信じ、自ら一歩を退く。その選択は、簡単な美談ではない。言葉にしきれぬ悔しさと未練が浮かぶ。
盟友・田中勇成にもたくさん相談した。幼いころから、ワセダに惹かれワセダの道をともに歩んできた友。
「辛かったですね」
偽りなき本音が漏れた。
「中島だからこそ、伝えられることがある」
スタッフ転向後に任された役職は、S&C(ストレングス&コンディショニング)だった。ウエイトトレーニングやフィットネスの指導、試合前のウォーミングアップの指揮。さらには寮での体重管理や日常のコンディションまでを支える役割を担った。
その背景には、大田尾監督からの明確な期待がある。
「技術的なこと以上に、中島が言うからこそ伝わることがある。お前にしかできないことをやってほしい」
S&Cは、選手と最も近い距離で向き合うポジションだ。キャプテンとしての経験、仲間からの信頼。中島氏の存在そのものが、チームにとって大きな支えになると指揮官から判断された。
グラウンドの外から、仲間の背中を押す。かつて自分が立ちたかった場所を、別の形で守り続ける日々が始まった。

「僕も、一緒に戦えていたかな」
そうして迎えた、2025年度。早稲田大学はジュニア選手権を16年ぶりに制覇。対抗戦でも、スピードと連動性を武器にした展開ラグビーで、見る者の心を掴んだ。
対抗戦優勝が懸かった明治大学との最終戦では、19対25で惜しくも敗れる。最終順位は3位となった。
しかしその結果が、大学選手権での道筋を切り開く。過去の悔しさと向き合う“リベンジマッチ”が続く山に入った。
準々決勝の舞台は、2年前に涙をのんだ大阪の地。そこで関西1位の天理大学を、撃破した。続く準決勝では、昨季決勝で敗れていた帝京大学を下し、ついに“荒ぶる”へ王手をかけた。

そして迎えた、1月11日。大学生活最後の公式戦となる、大学選手権決勝。
中島潤一郎は、再び国立競技場に戻ってきた。
大学2年時の早慶戦では、選手として立ったこともある場所。この日、「支える側」としてラストゲームを迎えた。
スタッフになったからこそ、見えた景色があると中島氏はいう。
「選手だった頃、自分がどれだけ多くの人に支えられていたのかを痛感しました。どれだけ恵まれていたのか、ということも感じました」
大学4年生。最後までラグビーを続けることを許された者だけが立てる、至高の舞台。
大学選手権、決勝。
試合前、桐蔭学園高校の後輩たちが「やってくるから」と声をかけてくれた。その言葉が、嬉しかった。
「僕も、一緒に戦えていたかな」と言葉を詰まらせた。

結果は、既報のとおり。
「日本一になるためにスタッフになったので、この1試合に懸けていた想いは強かったです。でも・・・難しいですね」
”荒ぶる”を掴むことはできなかった。
納得はしていない。それでも後悔はない
選手を引退し、スタッフに転向するとチームメイトに伝えた日。
中島氏はある言葉とともに、自身の気持ちを打ち明けていた。
「正直、これが正しいのかどうか僕にはまだ分からない。でも、優勝したら”正しかった”と言えると思う」
自身の選択を、正しかったと自分自身で認めてあげるためにも、優勝したかった。だが、叶えることはできなかった。
いま、改めて問う。
この1年間の最後に宿る、素直な心の内を。
「うーん・・・。そうですね。納得はしていないですけど、後悔もしていないです」
そう、静かに口にした。
優勝していれば、この決断が「正しかった」と曇りなく言えたのかもしれない。だが結果にかかわらず、選んだ道で全力を尽くした。その事実が揺らぐことはない。
選手として終われなかった時間。夢を途中で手放した悔しさ。それでもチームのために戦い続けたラストイヤー。
卒業後は、一般企業への就職が決まっている。ラグビーとは違うフィールドで始まる、新たな挑戦。”荒ぶる”のために、自らの役割を選び抜いたこの1年が、これからの自分を支えていくことだろう。
中島潤一郎は、最後まで「早稲田の一員」として戦い抜いた。
たとえ、納得しきれなくても。それでも、後悔のない1年だった。
◇
インタビューを終え、最後に笑って言った。
「これからも早稲田大学をよろしくお願いします」
頼りになる後輩たちの、未来を想った。


国立競技場で行われた100回目の早慶戦で、アカクロをまとっていた中島氏。左から4番目

後半ロスタイムにピッチに立っていた