4・5月
サニックスワールドラグビーユース交流大会2024。
今季の桐蔭学園が公式戦で最も球離れに特化したゲームを見せた大会だったのではなかろうか。
始まりは初戦・フィジー戦だった。
「1人止めたと思ってもまた1人来て次に繋がれていた。顔を上げたら、もう違う所にボールを運ばれてしまっていて。今までの試合の中で、今日が一番キツかった」(申キャプテン)と言うほど、日本では体験することのないラグビースタイルでボールを動かし続けたフィジーチーム。試合序盤はその勢いに圧倒される姿が目に付いたが、得点機で3点を積み重ねれば山場を乗り越えた。
準決勝では、大会屈指の実力を誇ったオーストラリアチームを相手に勝利を収める。SH後藤快斗選手は抜群の球捌きを見せ、FB古賀選手もまた殻を破るプレーを随所で発揮すれば、WTB草薙拓海選手はその力強い走りで国籍を問わずあらゆるラグビーファンを沸かせた。
決勝戦では初めての日本チーム同士の対戦を実現させる。惜しくも15-17で大阪桐蔭に敗れはしたが、しかしわずか1ヵ月前に行われた全国選抜大会時以上の強度と内容で、日本の高校ラグビーをネクストレベルへと押し上げた。
腹が決まりさえすれば、想像を遥かに超えるラグビーができることを、59期は早くも証明した。
ここでも一つ、裏話がある。
こちらも全国選抜大会同様に、決勝戦まで残れることを想定していなかった桐蔭学園の面々。なぜならば伊藤大祐(現・コベルコ神戸スティーラーズ)を擁し、春夏冬を制した54期でさえ、サニックスワールドユースでは3位止まりだったのだ。だから事前に用意していた復路の新幹線の時間は、決勝戦終了時刻よりも前のもの。
決勝進出を決めた翌朝、スタッフ陣はみどりの窓口が開く朝一番に小倉駅へと走ると、全員分の乗車チケットを『決勝戦終了後の乗車時間』に変更すべく奔走した。
ゴールデンウィークにつき、全席指定席。もちろん普通席は当たり前のように満席で、数十人が同時に乗ることはどうしたって不可能。
なんとか確保できた2列車に分かれ、全員がグリーン車で帰路についた。
6月
Aブロックに入った関東大会。
昌平との1回戦は前半を3-10と7点のビハインドで折り返したが、後半に盛り返し43-10で勝利。
決勝戦へと駒を進めると、國學院栃木に関東新人大会のリベンジを果たし関東王座を死守した。
「全員がスキル高く、速いラグビーを意思統一して遂行すること。今年の3年生は団結しています。59期として花園優勝するんだ、という気持ちが大きい。体が小さい分、スキルで上回っていきたいです」(申キャプテン)
上半期を終え、59期が目指す『速いラグビー』の方向性に一定の目途がついた。
7月
大きな喜びを表したのは夏の始まりのことだった。
第11回全国高等学校7人制ラグビーフットボール大会で、第6回大会以来2度目の優勝を果たした。
『死の組』とも呼ばれた予選プールを勝ち上がってのチャンピオンは格別だった。
大会1日目の東福岡・京都工学院との三つ巴戦が、早くも決勝戦レベル。さよなら逆転トライで初戦・東福岡戦を制した所から快進撃は始まった。
その立役者は、OBの小西泰聖選手(現・浦安D-Rocks)。スポットコーチとして、現役生に7人制のアタック方法を一から教え、ディフェンスシステムを伝授した。
選手たちは今でも「小西さんのおかげで優勝できた」と口々にするほど、その存在は大きかった。
「全国選抜もサニックスワールドユースも大阪桐蔭にあと一歩の差で敗れた。『絶対にタイトルを獲りたい』と僕以外も全員、思っていました。昨年準優勝に終わったセブンズを獲れて、本当にこの仲間たちが誇らしくて。本当に嬉しいです」
優勝が決まった瞬間、飛び跳ね拳を突き上げた申キャプテンは笑顔でチームメイトを讃えた。
8月
真夏の菅平に激震が走ったのは8月12日のこと。
東福岡との練習試合で、15-51で敗れた。今季初の全国チャンピオンの座を手にしてから、まだ1ヵ月も経っていない日のことだった。
1対1のコンタクトで優位に立てず、ブレイクダウンでも負け、セットプレーも取れない。
まさしく完敗だった。
何で、どこで、どうやって立ち向かうのかをグラウンド上で表せなかった一戦。
『隙』と『波』。
この頃の桐蔭学園には、まだまだ軌道を安定させられない脆さがあった。