2016年、リオデジャネイロ五輪。
当時22歳だった川崎桜子さんは、ラグビー7人制女子の審判団の一員として、オリンピックの舞台に立った。
順風に歩んでいるように見えた、レフリー街道。
しかし突如として、国から難病指定されている病が彼女を襲う。
診断を受けてから今年で4年。
29歳となった今、立場を変え再びラグビーと過ごす日々に、宿る新たな目標を聞いた。
マネージャーから選手、そしてレフリーへ
ラグビーとの出会いは、高校生の時だった。
玉川学園高校ラグビー部に、マネージャーとして入部する。高校3年次には、プレーヤーへと転向した。
その後帝京大学の赤ジャージに憧れ、帝京大学医療技術学部に進学。
当初はトレーナーとしてラグビー部への入部を希望していたが、トレーナー職は1年間勉強したのち2年次からしか入部が許されない職種だった。
諦めなきれなかった川崎氏は、岩出雅之監督(当時)に直談判。
「わたしは帝京大学のラグビー部に入りたくてここに来た。どんな形でもいいから、1年生から入れて欲しい。」
すると熱意受け取った岩出監督は、ついに首を縦に振る。マネージャー職の募集期限は過ぎていたため、帝京大学初めての女子選手として、入部が決まった。
大学1年、初夏のことだった。
選手生活にピリオドを打ったのは、大学1年生の終わり頃。
合同チームの一員として出場した大会で、肩を脱臼した。生まれて初めての怪我だった。
厳しい3か月のリハビリ期間中は、どうしても気の滅入る日々が続く。「迷惑をかけたくて帝京大学のラグビー部に入りたかったんじゃない。」気持ちばかりが焦ってしまった。
そんな姿を見かねた岩出監督は、ある一つの提案を持ちかける。
「ラグビーが好きという気持ちは伝わっている。選手ではなく、他の道に挑戦したらどうだ。」
打診されたのは、レフリー職。その頃には既に、トレーナーになるという選択肢はなくなっていた。
「選手を支える面白さよりも、自分が何かをしている方が楽しかったんです。帝京大学ラグビー部では、ほんの些細なことでも周りの人たちが正しく評価してくれた。頑張ったら頑張ったことを誉めてくれるし、手を抜いたらみんなの前で泣くほど怒られたこともある。男子・女子という括りではなく、平等に扱ってくださったことが嬉しくて、新鮮でした。だから、選手たちと一緒に成長出来るポジションへのチャレンジを決めました。」
かくして、大学2年次からは役職を学生レフリーへと変更した。
東京五輪目前の無念
そこからのレフリー街道は、多くのラグビーファンが知る通り。
7人制のワールドカップやワールドシリーズ、そしてリオデジャネイロオリンピック。大学在学中にも関わらず、様々な世界大会でマッチオフィシャルの一員に名を連ねるまでになった。
次に目指すは、母国・日本で行われる2020年東京オリンピック。
レフリーとして、絶対に笛を吹きたい。
そのたった一つの目標に向かって、トレーニングを重ねる日々が続いた。
だが、どんな運命のいたずらか。
東京オリンピックを1年後に控えた2019年、川崎氏を病が襲う。
「なんだかずっと、体調悪い日が続いていたんです。」
病院へ行き、検査を受けると、免疫系の数値に異常が見つかった。
全身性エリテマトーデス。国指定の難病だった。
そのまま即、入院。
長年目標としてきた舞台を、諦めざるを得なかった。
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