1年間の寝たきり生活に、2年間の車いす生活。たどり着いた対抗戦の舞台「好きが原動力です」|青山学院大学2年・芦髙琉広

青山学院大学ラグビー部2年生、芦髙琉広(あしたか りゅうこう)選手。ディフェンスを得意とするフランカーだ。

愛知県でラグビーを始めて8年目の今秋、初めて対抗戦の舞台に立った。

芦髙選手がラグビーを始めたのは、中学生の時。だが、その少し前に遡らなければ、彼のラグビー物語は始まらない。

小学4年生の1年間、寝たきりの入院生活を送った。

小学5年生から6年生までは、車いす生活。

歩くことすらできなかった3年間を経験した。

スポンサーリンク

ペルテス病を患った。大腿骨頭への血流障害などが起因し、骨頭が壊死してしまう股関節の病気だ。

小学4年生ながら、14時間にも及ぶ手術を受ける。骨盤の一部を切り取り、丸く削って、壊死して削れてしまった骨頭の一部分に移植をする大手術だった。術後は胸から足先までギプスで固定。寝たきりの状態が続いた。

小学4年次は、入院していた小児医療センターに併設された特別支援学校へ通った。5年次からは、それまで通っていた小学校に車いすと松葉杖で通学。通常の体育の授業すら受けられぬ日々。小学校卒業を目前に、ようやく体育に参加できるようになった。

病気を患う前は、空手に打ち込む活発な少年だった芦髙選手は、中学でボクシングをしてみたいと考えていた。父がボクシングの世界で生きてきた人だったからだ。

だが「お父さんに『ボクシングなめんなよ』って言われて(笑)」。3年間運動していなかったブランクを踏まえ、中学からでも始めやすいスポーツを探した。

「愛知県は中学ラグビーが盛んなんですよ。僕が通っていた中学校のラグビー部は、太陽生命カップ(全国大会)に出場するくらいの実績があって結構強くて。なので『やってみようかな~』っていう、それぐらいの軽い気持ちでした。コーチに『ちょっとやってみるか』みたいな感じで言われて、『じゃあやります』って。」

コンタクトスポーツ。もちろん、足への恐怖心もあった。

両親からは反対されるかと思いきや「今しか出来ないんだから、自分の好きなことをやりなさい」と背中を押されたという。


なぜここまでラグビーを続けられたのかと聞いた。「好き、だからですね。好きが原動力です」。なんか辞められないんです、と笑った。

高校は、展開ラグビーに憧れ兵庫県・報徳学園高校に通った。目標だった花園の舞台。高校2年生でジャージーを掴むと、最上級生の時には花園全試合フル出場を果たす。

その後、青山学院大学へと進学。しかし同じポジションには、同級生が大きなライバルとして立ちはだかった。

168㎝、80㎏の八尋祥吾選手。芦髙選手は身長170㎝の体重81㎏。同じ体形の、プレースタイルも似ている好敵手だった。

「八尋祥吾が本当エグくて。これはダメだ、って。」

一時期諦めてしまったことがありました、と正直に話した。Aチームの先発で試合に出たことのない日々は、大学2年の夏まで続いた。

スポンサーリンク

「このままじゃあかん。」

大学2年生になった芦髙選手は、今年の夏合宿中、村松歩ヘッドコーチのもとへと出向いた。そして問う。「僕、どうやったらAチームで出れますか?」

ライバルと同じ体重で身長。プレースタイルも似ている。どうしたら、何を付け加えたらいいのか。

ヘッドコーチの出した答えはシンプルだった。

「お前の持ち味をもっと出しなさい。」

だから頑張った。次の試合でやって来い、と言われた専修大学とのB戦(Bチーム同士の試合のこと)。出場すると、とにかくディフェンスで「バッチバチに刺さったんですよ」と誇らしげに微笑んだ。

やるべきことをやった。

スポンサーリンク