本日もラグビー場より、愛を込めて|&rugbyが見た景色

夏が終われば、秋を迎える。学生ラグビーにとっては、勝負の季節だ。

どこかで、誰かのラグビーが終わっていく。それが、毎週のように続いていく。

グラウンドに立つ15人だけでなく、多くの仲間とその周りにいる監督、コーチ、スタッフ、そして選手の家族たち。それぞれの思いが、選手の数だけ広がっている。

秋は、その思いを一気に受け取る季節。だから、この時期はどうしてもセンチメンタルな気持ちになる。

今年、大きな学びがあった。少し、考え方が変わった。

それまでは、学生ラグビーにおいて、代替わりは区切りだと思っていた。

例えば高校3年生にとっては、花園予選で敗れると、もう高校でラグビーをすることはない。そこで、物語は終わりを迎えるのだと思っていた。

だから試合後、チームスタッフの方々へ挨拶に行くときに「また来年もよろしくお願いします」とテンプレートのように自分の口から出てきてしまうその言葉が、正直苦手だった。

来年はない。ここで終わりなのに。今年しかないのに。この瞬間しかないのに。

けれど、違った。

あるチームが、その考えを覆してくれた。その代での歩みは終わっても、チームは続いていく。血は、確かに受け継がれていくことを教えてくれた。

慶應義塾志木高校。今年、初めての花園出場を決めたチームだ。

少し時代をさかのぼり、今の大学2年生の世代が、高校3年生だった頃のこと。佐藤龍吾という選手がいた。慶應志木高校の主将を務めた、ナンバーエイト。現在は、慶應義塾大学の2年生。もちろん、慶應義塾體育會蹴球部でラグビーを続けている。

彼にボールを渡せば、必ず局面をどうにかしてくれた。とんでもないナンバーエイトだった。

2年前の全国高校ラグビー大会埼玉県予選か行われていた時には、どうにも心惹かれて学校まで足を運んだ。そのとき、彼が言っていた言葉が忘れられない。

「慶應志木には、変なやつが多い。だからこそ、面白い」

ここで「だから」という言葉を選ぶことに、心底驚いた。

2年前は準決勝で敗れ、涙を呑んだ慶應志木高校。その日、佐藤元キャプテンは手首にテーピングを巻き、「おれは強い」と一言したためていた。

「おれは強い」と自らに言い聞かせなければ「正気を保てない」から。

それが、花園予選という場所なのだと、18歳の男の子に教えてもらった。

それから時は経ち、2年後の今年。あのとき高校1年生だった選手たちは今、高校3年生になった。そして佐藤元キャプテンのエッセンスを受け継いだ選手たちが、花園の切符をつかみ取った。

決勝戦で勝利した瞬間。スタンドからも大きな歓声が上がった。ガッツポーズをする保護者にOB。

ふと最前列を見ると、佐藤元キャプテンがいた。涙を流していた。

かつてのキャプテンが、後輩たちの花園出場を、涙を流して喜んでいた。

その姿を見たときだった。その代は、その1年間だけで終わるわけではないのだと、心から思った。

物理的にはもちろん、終わりを迎える。だが、その想いは続いていく。きちんと、受け継がれていく。

彼の涙が、それを教えてくれた。

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もう一つ、「その代で終わりではない」ということを言葉にして教えてくれたのが東洋大学だった。

今の大学4年生が、大学1年生だったときのキャプテンに、齋藤 良明慈縁という選手がいた。とんでもないキャプテンだった。

&rugbyをとおしてこれまで出会ってきた全てのラグビー選手の中でも、間違いなく特別な存在だった。

彼にはいろいろな質問をした。でも返ってくる言葉のほとんどは、こちらがまったく想像していなかった方向からのもの。研ぎ澄まされた日本刀のようでもあった。

尊敬しているラグビー選手は誰か、と聞かれたら、私は迷わず「齋藤 良明慈縁」と答えている。それぐらい心に残る選手だった。(ちなみに現在は静岡ブルーレヴズでプレーを続けている)

彼の考え方。物事の捉え方。それを言葉にする力。仲間を引き上げる力。

どれを取っても、群を抜いていた。

今年の大学選手権。東洋大学は、帝京大学と、強く記憶に残る試合をした。

今の東洋大学4年生たちは、齋藤 良明慈縁選手が主将の時の1年生。あの大きな背中を直接知っている世代の、最後の学年。

今年のキャプテンである、ステファン・ヴァハフォラウ選手に、そのことについて尋ねたことがある。

これから先の東洋大学は、齋藤 良明慈縁を知らない世代だけでつくられていく。そのことに不安はないか、と。

そしたら、ヴァハフォラウ主将はこう言った。

「僕たちは、3つ上の代みたいになりたいと思ってやってきました。だから後輩たちには、どの代でもいい。1つ上でも、2つ上でも、3つ上でもいいから、
それぞれが“超えたい代”を持って、それを超えていってほしい」

そうか、と思った。

受け継がれるというのは、同じものをなぞり続けることではない。

それぞれが、それぞれの憧れを超えていくこと。そうやって形を変えながらも、圧倒的なものとして姿は残っていくのだと。

だから、その代で終わりではない。その代を知る世代、で終わりなのでもない。

それぞれが、それぞれの「超えたいもの」を持って進んでいけば、それは必ず、より良い形で継承されていく。

今年の東洋大学のキャプテンが、それを言葉にして教えてくれた。

ちなみにヴァハフォラウ主将は、トンガとスイスのハーフ。日本人よりも日本の文化を理解し、日本語を巧みに操る。まったく頭が上がらない。

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もう一つ、この秋に得た大きな学びを共有したい。

それは、どんなコンディション下であっても「100%で挑む」ということについてだ。

とあるオーディション番組で、アーティストの言葉を聞いた。

「その日のコンディション次第では、実力の60%しか出せない人がいる。でも60%の100%を出したら、手を抜いた100%には勝てる」と。

なるほど、と思った。それが“気持ち”なのだと思った。

少し計算してみる。

例えば、チーム全員が99%の実力で試合に臨んだとする。たった少しの気の緩みを持つ99%の状態の15人が集まると、15人の集団ではチーム力が86%になってしまう(0.99の15乗)。

実力で10%劣っていたチームBがあるとしよう。だが彼らが実力を100%で発揮したとする。

そうしたら、86%のチーム力に対して、90%のチーム力は勝てる。だから、勝利は近づく。

そういうことなのではなかろうか、と理解した。

そしてその言葉と重なったのが、今年の國學院栃木高校の「根性」という言葉だった。

この「根性」という言葉、なかなか面白い。いつの間にか、彼らのスローガンのようになっていた。

でも一方で、グラウンドでは「丁寧に」という言葉が、ずっと聞こえ続ける。

試合の終盤も丁寧に。ウェイトトレーニングの時間だって丁寧に。夏の菅平で、筑紫高校が國學院栃木高校と練習試合をした時、筑紫高校の長木監督は「コクトチは最後まで丁寧だった」と驚いていた。強いチームは、最後まで丁寧に戦うことができる。

正直に言うと、「根性」と「丁寧」という言葉は、どこか離れたところにあるものだと思っていた。根性論はどちらかと言えば雑になりがちで、丁寧さよりも勢いを優先する、相反するものだと感じていた。

その疑問をそのまま、國學院栃木高校の福田キャプテンに問うてみる。すると間髪入れずに、はっきりとした答えは返ってきた。

「根性に必要なのは、強気と丁寧です」

強気でプレーすること。でも、丁寧にプレーすること。

『強気+丁寧=根性』

これが根性の方程式なのだという。

なるほど。また、高校生に教えられてしまった。

強くあること。気持ちは前を向いていること。でも、プレーは雑にならないこと。

それが「根性」の正体なのだ。ただただ「根性」なのではない。その根性を作るための強気は、きっと先ほどの「コンディションの100%」にも繋がるのだと思う。

高校生は本当に、時々驚くほど純度の高い言葉をくれるから、そんな瞬間に心は揺さぶられる。

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